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【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

9月の読書記録

今日は晴れて

気持ちいい一日になりましたね。

 

9月に読んだ本をご紹介します。

 

日本海軍400時間の証言

軍令部・参謀たちが語った敗戦

 

 

終戦後に海軍のOBが集まり

1980年〜1999年まで

130回程度にわたってほぼ毎月、

公開しないことを前提に

軍令部中枢や艦隊配属の士官が

当時の状況を振り返り、

赤裸々な証言をしています。

 

 

極東国際軍事裁判

1946年5月3日から1948年11月12日まで、

2年半に及んだ裁判で

日本の軍人や政治家など

A級戦犯28人が起訴されました。

 

裁判中死亡した元外務大臣松岡洋右と

元海軍元帥永野修身、

病気で免訴となった大川周明の

3人以外は全員が有罪でした。

 

 

東条英機、土肥原賢二、松井石根、

武藤章、板垣征四郎、広田弘毅、

木村兵太郎の7人が死刑判決を受け、

12月23日に絞首刑となりました。

 

首相や外相などを歴任した

広田弘毅以外、全員陸軍の軍人でした。

 

 

太平洋戦争

海軍はアメリカとの戦争には反対だったが、

陸軍に引きずられるように

やむを得ず先端を開いた、

というのが一般的な

海軍へのイメージだと思われます。

 

ところが実際は海軍は予算獲得のため

対米戦の準備をしていたこと、

戦力の比較では明らかに日本には

勝ち目がないと分かっていながら、

責任者が誰も制止せず

なし崩し的に開戦したこと。

 

戦後処理においては、

国体を護ることを大義名分として、

GHQと歩調を合わせて

戦争責任は主に陸軍にあると

画策したことなどが明らかになります。

 

 

東京裁判の対策として、

上層部に責任が及ばないように配慮したのは、

最終的に天皇をかばうためであり

戦争の一番の問題は天皇制ではなかったのか、

ということに思い至ります。

 

 

責任者のリーダーシップの欠如、

身内を庇う隠蔽体質、

なし崩し的に流される組織の無責任体質など、

戦争に至る様々な要因があります。

 

現代の日本の組織にとって

これらが未だ解消できない問題点として

現在の政府や企業などに引き継がれていて

いつかは日本人が克服しなければならない

重要な課題だと思いました。

 


特に衝撃的だったのは

何の罪もない現地住民を

聖戦の名の下に虐殺して省みないこと、

捕虜への理不尽なむごい仕打ち、

またた若い兵士に特攻作戦を命じたこと、

戦後BC級の裁判では上層部をかばうために

現場に責任を押しつけたことなど、

日本軍の実態が明らかにされた点です。

 

 

これからの日本が

どのようになっていくのか

いろいろと考えさせられました。

 

 

 

日米開戦 陸軍の勝算

「秋丸機関」の最終報告書

 

大東亜戦争開戦に先立ち

1939年に陸軍内部の経済謀略機関

(秋丸機関)が創設されました。

 

関東軍参謀部付として旧満州国で

産業振興にあたっていた秋丸次朗

 

は、主要大学の統計・経済学者や、

中央省庁や南満州鉄道調査部から

精鋭を集め、政治、経済、社会、文化や

思想に至るまで、内外の書藉や賓料を

収集・分析しました。

 

その要点は、

英国は大戦を遂行するには供給不足があるが、

米国は余裕がある。

両国が手を組めば十分な経済抗戦力があり、

第三国にも軍需物資を供給する余力がある。

 

米国が最大の供給力を発揮するには、

開戦から一年から一年半かかる。

英国は海上輸送力に弱点があり、

月に50万総トン以上の船を繋沈できれば、

米国からの援助物資が届かなくなり、

英国の抗戦力は急激に低下する。

 

ゆえに英国に対しては海上遮断を強化し、

植民地に戦線を拡大するのが効果的。

 

対米戦略は対独戦に追い込んで

国力を消耗させ、国内に反戦気運を高めて

英国、ソ連と離反させるのがよい。

というものでした。

 

 

秋丸はさらに口頭で

「日米の国力差は20対1」

と付け加え、国力を比較したらとても勝てず、

英国については支援物資を送る船を

大量に沈める戦略を示していましたが、

沈めるのはドイツの役割です。

 

そのドイツの国力については、

「独逸」班の「経済抗戦力はすでに限界で、

今後は次第に低下せざるを得ない。

独ソ戦に短期で勝利して

ソ連の生産力を利用できたとしても、

まだ供給不足は消えない」

という分析を付け加えています。

 

 

この報告を元にインドとイギリス、

豪州とイギリスの補給路を断つ作戦を立案します。

 

この作戦が上手く行けば

勝てないまでも大敗は無いはずでした。

 

ところが山本五十六が強行に主張した

真珠湾攻撃によって

アメリカを本気にさせてしまい、

日本は敗北への道を突き進むことになります。

 

 

 

特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ

米軍兵士が見た沖縄特攻戦の真実

 

 

 

神風特別攻撃隊により沈没寸前まで

至った空母バンカーヒル

 

 

1944(昭和19)年10月、

米軍はフィリピンへの上陸作戦を開始し

日本軍はこれを阻止しようと、

米艦隊に特攻機による体当たり攻撃が

初めて行われました。

 

最初の特別攻撃隊

関行男海軍大尉

 

 

を隊長として

中野磐雄・一飛曹 谷暢夫・一飛曹

永峯肇・飛行兵長 大黒繁男・上飛

の五人で編成されました。

 

 

報道班員だった同盟通信の小野田政特派員は、

出撃を控えた関大尉とのやり取りを

回想録『神風特攻隊出撃の日』

の中で述べています。

 

「関は腹立たしげにこういった。

報道班員、日本もおしまいだよ。

僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。

僕なら体当たりせずとも的空母の飛行甲板に

50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。

 

僕は天皇陛下のためとか、

日本帝国のためとかで行くんじゃない。

は最愛のKAのために行くんだ。

命令とあらば止むをえまい。

ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。

最愛の者のために死ぬ。

どうだ、すばらしいだろう。」

 

関大尉は当時、新婚5カ月。

KAは海軍用語で妻を指し、

その言葉からは自分がやらなければという

苦渋に満ちた決断が伝わってきます。

 

 

10月25日の敷島隊の戦果は

護衛母艦セント・ローを大破させるという

絶大な効果があり

死を覚悟で突入してくる日本軍機に

米軍はパニック状態に陥りました。

 

米側が警戒体制を整えるようになると、

重い爆弾を積んで動きの鈍った特攻機は

艦船に近づく前に撃墜されることが多くなり

航空機が不足した末期には

構造が脆弱な練習機まで駆り出されました。

 

 

特攻による日本側の戦死者は

終戦までに陸海軍を合わせて

3650人に達しました。

 

米艦隊が対峙した特攻機は356機で、

米艦への命中が140機、

至近距離の爆発による被害が59機でした。

 

 

1945年5月11日 二機の特攻機が

バンカーヒルに突入しました。

 

写真左の安則盛三

 

 

写真右の小川清の二機

は空母舷側に大穴を開け大炎上となり、

 

 

艦内の破壊された様子が

克明に描かれていて、

突入した特攻隊員の姿や

艦内に閉じ込められたアメリカ軍兵士の

凄惨な状況など

これまでは想像できなかった内容が

詳細にわかりました。

 

 

著者のケネディ,マクスウェル・テイラー

(Kennedy,Maxwell Taylor)

は1965年、ニューヨーク生まれ。

ロバート・F・ケネディ元司法長官の息子であり、

ジョン・F・ケネディ元大統領の

甥にあたる人物です。

 

 

特攻隊の成立する背景や

バンカーヒルに突入した

二人の特攻隊員の生い立ちや性格

突入するまでの時代背景まで

友人ら多くのインタビューを元に

非常に詳しく解説しています。

 

 

特攻隊で殉死した若い人たちは、

未来の日本人が特攻隊の精神を受け継いで

強い心を持ち苦難に耐えてくれる

ことを望んでいたのではないでしょうか。

 

自分も困難に直面した時には

彼らの気持ちを思い、自分自身

出来る事を限界までやり切ろうと思いました。

 

 

日本大空襲「実行犯」の告白

なぜ46万人は殺されたのか

 

 

1945年3月10日

東京大空襲の被害は甚大で

10万人以上の非戦闘員の大量虐殺は

日本人にとっても忘れることの出来ない惨禍です。

 

カーチスルメイはこの空襲を指揮していましたが

陸軍の一組織である陸軍航空軍に所属していました。

 

戦時中陸軍の中でも目立った功績がないため

立場が弱く、戦争の際にどれだけ目立つ活躍したかを

議会にアピールして予算を獲得し

アメリカ空軍として独立した組織を立ち上げるため

日本の大空襲が利用されたとの内容です。

 

1964年日本政府、佐藤栄作首相は

カーチスルメイに対して

勲一等旭日大勲章を授与していますが、

自衛隊の発展に寄与した功績が

評価されたものでした。

 

どういう経緯でそうなったのか

釈然としない気持ちです。

 

 

親戚の叔母も小さい頃

母親に背負われて東京大空襲の戦禍を

逃げて生き延びたという話を聞いて

人の運命の過酷さを思いました。

 

 

終戦後の日本の歴史的経緯について

これからも情報を集めていきたいと思います。