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【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

5月の読書記録

今日もいいお天気でしたね。

 

 

5月に読んだ本の記録です。

 

白洲次郎  占領を背負った男

北 康利

 

 

白洲次郎は明治35年芦屋市に生まれ、

大正10年にはイギリスに渡り

英国風のインテリジェンスを身につけます。

 

終戦後吉田茂首相に請われて

終戦連絡事務局参与となり、

ケンブリッジ大学に留学した語学力で

GHQの高官と対峙します。

 

 

日本国憲法の成立に深く関わり

マッカーサーの幕僚ホイットニーと

度重なる交渉

自主憲法を持つべきとの考えを持ちながら

最終的にはGHQ案を受け入れました。

 

 

さらに通商産業省設立や電力再編にも尽力し、

1951年(昭和26年)に東北電力会長に就任。

大沢商会、大洋漁業、日本テレビなどの役人や顧問を歴任。

戦後の荒廃した政治・経済に道筋をつけました。

 

 

多くのエピソードがありますが、

天皇からのクリスマスプレゼントを

マッカーサーに運んだ際

テーブルの上にプレゼントが山積みにされていました。

 

彼は「その辺に置いておいてくれ」と

マッカーサーに言われて激昂し、

「いやしくも日本国を代表する天皇陛下からの

贈り物をぞんざいに扱うとは無礼である。

持ち帰らせて貰う」と一喝しました。

 

マッカーサーは慌てて机を用意して

非礼をわびたという話は

日本人の心意気を感じました。

 

 

行動は常に自らのプリンシプル(原理原則)に基づき、

相手がGHQであろうと誰であろうと、

主張を曲げることはありませんでした。

 

「日本くらい自分でものを考えるやつが

少ない国はありませんよ」

という言葉には、現代の我々にも通じていて

いろいろと考えさせられました。

 

周りに流されずに信念を貫く姿勢は

見習いたいところです。

 

 

旧白州邸である武相荘(ぶあいそう)

にもいつか行って見たいと思います。

 

 

 

 

 

二つの祖国

山崎豊子

 

 

ハワイ在住の日本語新聞社記者である

主人公 天羽賢治がたどる数奇な運命の物語です。

 

太平洋戦争で日系アメリカ人は

収容所に隔離され、差別的待遇に悩まされます。

 

天羽賢治は

「良き日本人たろう努力することが

立派なアメリカ市民たり得る」

との思いで多くの困難に立ち向かいます。

 

日系二世が忠誠を示すために

アメリカ軍に従事した

日系アメリカ人部隊は激戦地に派遣され

戦争中に多くの武勲を立てました。

 

 

また情報機関である

ミリタリー・インテリジェンス・サービス

(米国陸軍情報部 MIS)

に日系二世が配属され

日本の軍事情報を分析する

重要な役割を果たしました。

 

1943年4月18日、前線基地の将兵を慰労する

山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗する

一式陸攻がブーゲンビル島上空で撃墜され、

長官が戦死したのは、

ハロルド・フデンナという日系二世のMIS兵士が、

戦艦武蔵から発信された暗号電文を解読し、

この情報を、米軍上層部に報告した結果でした。

 

 

広島で原爆に被災した恋人が

治療を受けることもなく

亡くなってしまう場面があるのですが、

学会で広島に行った際に見た

原爆記念館のことを思い出しました。

 

 

真珠湾攻撃で特殊潜航艇で座礁し

捕虜第一号となった

坂巻和男少尉のことも描かれていました。

 

 

 

また主人公が東京裁判で

通訳の誤りを直すモニターとして臨席し、

裁判の不条理さを描写する場面もありました。

 

裁判官の話す英語を日本語に訳して伝える役目で

日本人のみが戦争犯罪者で

原爆を落としたアメリカ人は違うのかと

自問自答します。

 

さらに日本語での死刑宣告を被告に告げることで

期待していた法の尊厳を得られず苦悩します。

 

 

太平洋戦争と原爆の悲惨さや、

日本人のあり方を問う小説ですが、

主人公のモデルとなった二人の人物がいます。

 

家族が広島で被爆した

ハリーフクハラ

 

 

福原ハリー克治・福原フランク克利は兄弟で

戦場で相対します。

 

兄の福原克治は

1920年ワシントン州のシアトルで生まれました。

 

両親は広島出身で、

アメリカで職業紹介所を経営していましたが、

父が亡くなり日本に帰っていました。

 

日本での生活に馴染めなかった克治は

18歳で単身アメリカに帰り、

アルバイトをして学費を捻出し、大学に通いました。

 

敵国の日本語が分かる福原克治は、

語学兵としてニューギニアやフィリピン戦線で、

日本軍の機密書類の翻訳や日本人捕虜の尋問にあたります。

 

これらの成功により

アメリカ軍の勝利が導かれます。

 

終戦により家族の安否を確認する為、広島を訪れます。

 

母と長兄は被爆し、長兄は寝たきりの状態でした。

 

福原克治は懸命に看病するも、

アメリカ軍が落とした原子爆弾によって長兄は亡くなりました

 

 

福原克治は、その後48年間日本で暮らしましたが、

晩年はカリフォルニアに住み、

日米両国における各界の著名人との親交を続け

2015年95歳で亡くなりました。

 

 

 

もう一人のモデル

伊丹明

 

 

天羽賢治と同じ、鹿児島県加治木町の出身でした。

 

1911年、鹿児島から移民した両親のもと、

カリフォルニアで生まれました。

2歳から19歳までは日本の叔母の家で暮らします。

 

大学卒業後 アメリカに戻り、

日本語新聞の記者になります。

 

太平洋戦争が勃発した後にアメリカ陸軍情報部に配属され、

日本軍の軍事暗号を解読する任務につきました。

 

盗聴しても分からなかった日本軍の方言を訳したり、

皇室典範などの文書翻訳、分析に携わります。

 

戦後極東国際軍事裁判の翻訳官として来日

A級戦犯に対して

英語を日本語に翻訳していました。

 

 

加治木町には、

「二つの祖国」伊丹明の出身地という立て札と、

東京裁判、極東国際軍事裁判において

通訳モニターを務めた際の

イヤフォンをつけた横顔のブロンズ板があります。

 

 

戦後の混乱期に日本のために尽力した

日系二世がいたことを

忘れないようにしたいと思います。