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【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

尼子氏 大内氏と毛利元就  ( 2 )

戦国大名のうち

毛利元就は一代で中国10か国を支配するまで

のし上がった戦国大名です。

 

 

当初は尼子氏の下についていた毛利元就ですが

その後尼子氏から大内氏へ鞍替えします。

 

 

大内義隆

 

 

天文20年( 1551年)

フランシスコザビエルは念願であった

山口でのキリスト教布教の許可を取り付けました。

 

大内義隆は大道寺をザビエルに与え、

キリスト教布教の拠点としました。

 

公家趣味を好む文化人であった義隆は、

この後は文治派の相良武任(さがらたけとう)

を重用するようになりました。

 

武断派の筆頭である陶隆房は遠ざけられ、

不遇の時を過ごすことになります。

 

そんな大内義隆に対して

陶隆房はクーデターを起こし義隆を自害に追い込みます。

大寧寺の変

 

 

 

空いた大内当主の座に据えたのが、

義隆の養子の大友晴英(はるひで)で、

大友義鎮(よししげ/のちの宗麟)の弟でしたが、

大内義隆が後継者として育てた

晴持が亡くなった際に

大内家の猶子となった経緯があります。

 

のちに義隆の実子・義尊が生まれたため、

猶子ではなくなっていましたが、

隆房によって飾りの当主に立てられたのです。

 

このとき、義隆の名を受けて賜った

「隆房」の名を捨て、

晴英の「晴」の字を賜って

「晴賢」と名乗るようになりました。

 

晴英もすぐに「義長」と改名しています。

 

 

大内家を乗っ取った陶晴賢は、

1553年(天文22年)、義隆と縁のある

石見三本松城主の吉見正頼と対立します。

 

吉見討伐には元就らにも出陣を要請していたのですが、

吉見正頼と陶晴賢から同時に出陣要請を受けた

毛利元就は、熟慮の末に

陶晴賢との対決を決意しました。

 

 

天文23年(1554年)毛利元就は

尼子の精鋭である新宮党(しんぐうとう)

を崩壊させるための作戦を開始します。

 

元就は、「新宮党が毛利に近づいている」

という噂を流しました。

 

尼子氏の結束が強ければ

こんな噂は鼻で笑われておしまいですが、

尼子氏は一枚岩ではありませんでした。

 

もともと精鋭の新宮党と、尼子当主尼子晴久とは

折り合いが悪かったのです。

 

次いで元就の第二の矢、

「毛利と通じている証拠の密書」

を晴久の手に渡らせることで、

疑念を抱かせたのです。

 

晴久は元就の策にはまってしまい、

新宮党の国久とその子・誠久(まさひさ)、

敬久(たかひさ)を粛清。

これで新宮党は自滅してしまいました。

新宮党の変

 

さらに1554年(天文23年)、毛利氏は

村上水軍の一族である

村上通康と婚姻関係を結びました。

 

 

天文24年(1555年)厳島の戦い

毛利元就が陶晴賢に圧勝。

 

永禄3年(1560年)尼子晴久が病死し、

毛利元就が怒涛の進撃を開始、

永禄5年(1562年)尼子氏の

永禄6年(1563年)には息子の毛利輝元を亡くしますが

 

5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し

戦国大名尼子氏は3代で滅亡しました。

第二次月山富田城の戦い

 

 

尼子氏と大内氏

毛利元就の勢力争いはめまぐるしく力関係が変化して

興味深いエピソードが多く、

これからも調べていきたいと思います。