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【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

松陰神社に行ってきました

今日は曇りでスッキリしないお天気でしたね。

 

 

 

松陰神社境内に週末は

野点茶店が出店しています。

 

 

 

これまでにはこのような

イベントはなかったので

とても新鮮な感じです。

 

 

吉田松陰

 

 

は、天保元年(1830年)萩藩士、

杉百合之助(ゆりのすけ)の次男として

萩藩領内の萩城東郊に位置する

松本村で生まれました。

 

名は矩方(のりかた)

幼名は虎之助でした。

 

 

百合之助の次弟で、

吉田家に養子に入っていた萩藩の

山鹿流兵学師範・叔父吉田大助が、

子ができないため、兄に乞うて

松陰5歳の時に吉田家に養子に入ります。

 

吉田家は代々毛利家に

山鹿流兵学師範として仕え、

家禄五十七石六斗、

大番組をつとめる家柄でした。

 

養父・大助は、その翌年1834年に

29歳の若さで病で亡くなります。

 

このため松陰はわずか6歳で吉田家を継ぎ、

養父・大助の一字をとって大次郎と名乗ります。

 

その後百合之介の末弟の

玉木文之進に厳しい教育を受け

「己を捨て公のために生きろ」と

教えられました。

 

 

10歳で藩校明倫館に出仕し

11歳で藩主毛利敬親(もうりたかちか)

の前で武教全書の講義を行い、

藩主を感心させました。

 

13歳の時には長州藩が関ヶ原の戦い以来

343年ぶりに軍事演習を実施した際の

砲術を指揮しました。

 

15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、

山鹿流、長沼流の江戸時代における

兵学の双璧を収めました。

 

19歳で独立師範となり、

22歳まで山鹿流兵学を教えました。

 

20歳の時、萩藩領の日本海沿岸を

防備状況視察のため旅に出て

21歳の時に兵学研究のため藩主に従って

遊学生として江戸へ出て

佐久間象山の「五月塾」で儒学と

西洋兵学を広く学びます。

 

嘉永4年(1851年)

ともに学んだ宮部鼎蔵(みやべていぞう)と

鎌倉や千葉、水戸や東北地方を訪れ

海岸線の防備状況を視察します。

 

 

嘉永6年(1853年)6月3日、

浦賀に来航したペリーの艦隊

目のあたりにし衝撃を受けた松陰は、

国防意識を強く持ち

西洋の事情を知るために外国に渡ることを決意

金子重之輔と二人で密航を企てます。

 

 

伊豆下田港に停泊中の

ミシシッピー号へ近づいて乗船しましたが、

その後、ポーハタン号に移されて

主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、

「外国に行くことは禁じられているが、

私たちは世界を見たい。

密航が知られれば殺される。

慈愛の心で乗船させて欲しい。」と訴えて

アメリカへの渡航の希望を伝えます。

 

ペリーはアメリカと日本は条約を結んだばかりで、

お互いの法律を守る義務があり、

2人に合わずに密航を拒否しました。

 

 

嘉永7年(1854年)3月31日

林復斎(大学頭)が交渉に当たり、

日米和親条約が締結。

ここに鎖国は終焉します。

 

1854年4月10日、密航の疑いで

下田奉行所で取り調べを受けた後

手錠・足かせで江戸に送還されます。

 

江戸に送られる途中、

赤穂浪士の墓の前を通った際に

「かくすれば かくなるものとしりながら

やむにやまれぬ やまとだましひ」

という有名な句を詠んでいます。

 

ペリー提督は下田奉行所に

過酷な罪は避けて欲しいと通告しており

老中・阿部正弘の助命もあり二人は

長州の萩に護送されます。

 

 

松陰は野山獄の獄中で

600冊以上の本を読破し、

囚人にも積極的に自分の遊学の経験や、

外交問題、国防問題、民政問題など

各分野に及ぶ高度な知識を伝えていきました。

 

 

 

松陰は本をじっくり読ませることにこだわり

注釈を与えず、原文を筆記しながら

読書をすることを勧めていました。

 

草取りや餅つきをしながら

本の読み方や歴史についての講義を行い

一緒に飯炊きなどをしながら

日常の些事も大切にしていたようです。

 

 

 

「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」

 

誠意を持って真摯に接すれば

それで心を動かされない人はいない。

人を動かそうと思ったら

誠心誠意、精一杯の気持ちで接すること。

 

これを基本方針としていました。

 

 

松下村塾は、天保13年(1842年)

吉田松陰の叔父

玉木文之進(たまき ぶんのしん)

が開塾した私塾として始まりました。

 

乃木希典も16歳の時に

松下村塾に入り薫陶を受けました。

 

 

その後、松陰の養子先養母の弟である

久保五郎左衛門(くぼ ごろうざえもん)

が松下村塾の名前を引き継いで私塾を開き、

その後松陰に引き継がれていくことになります。

 

松下村塾には

高杉晋作伊藤博文山県有朋など

明治維新で活躍する若者が学びました。

 

現在、松陰神社境内に修理修復され

当時のままの姿で現存しています。

 

 

松陰は幕府の老中・間部詮勝が

朝廷を厳しく取り締まろうとしていると聞き、

憤慨して間部詮勝要撃計画を実行しようと

萩に残る塾生に声をかけ要撃隊作り、

藩には武器・弾薬の提供を願い出ます。

 

結果的にこの行動が藩にとって

危険なものとして松下村塾の閉鎖を命じられ

松下村塾は閉鎖に追い込まれることとなり、

松陰は再度、野山獄に入れられます。

 

その後、ついに幕府から

松陰を江戸に送るようにとの命令が届きました。

 

 

井伊直弼は日米通商条約によって生じた

幕府への反発者に対して徹底した弾圧を行います。

 

安政の大獄で安政6年10月27日

松陰は江戸・小伝馬町で斬首刑となりました。

 

享年30歳。

 

 

辞世の句は

弟子宛に

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも

留め置かまし 大和魂」

家族宛に

「親思ふ 心にまさる 親心

けふのおとずれ 何ときくらん」

 

 

井伊直弼は豪徳寺に埋葬されていて

松陰神社と同じ世田谷区というのも

不思議な縁ですね。