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戦国武将列伝〜直江兼続

戦国武将の兜の中ではかなりインパクトがある武将

直江兼続

 

 

天下を捕るため織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たちが策略を重ね、

人を欺き、裏切り、他人を蹴落としてのし上がっていこうとしていた、

その混乱の時にただ一人、

愛をかかげ戦国を生き抜いた武将です。

 

直江兼続

 

 

この兜の愛の文字は、

仏教の信仰対象である“愛染明王”から取った

という説が信じられています。

 

 

愛染明王は種々の武器を手に、

怒りと暴力で悪の限りを尽くし、

世の人々をあの世に送る神でした。

 

 

直江兼続は永禄3(1560)年に

越後国魚沼郡上田庄坂戸城に生まれました。

 

父は坂戸城主長尾政景(景勝の父)に仕えた樋口兼豊で、

幼名は与六といいます。

 

仙桃院の推挙によって、

4歳前後の与六は小姓として春日山城にて

長尾顕景(のちの上杉景勝)の近侍となったと言われています。

 

上杉謙信急死後の天正6年(1578年)

謙信の二人の養子、景勝と北条氏政の弟 景虎との

後継争いである御館の乱では、

父・兼豊と共に景勝方に就いていました。

 

この闘いで勝利した兼続は

その後に起きた上杉景勝側近である

直江信綱が毛利秀広に殺害された事件の際

景勝の命により、

直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子

(船にとっては再婚)となり、

跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となりました。

 

 

天正10年(1582年)には、

織田信長の侵攻により

甲斐武田氏は滅亡~本能寺の変で信長が横死~

武田領は無主状態となり、

旧武田領を巡って、周辺の大大名である

徳川家康・北条氏直・上杉景勝が争った

天正壬午の乱が起こりました。

 

 

天正12年(1584年)末から

景勝の側近、狩野秀治が病に倒れると、

兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになり

秀治の死後は単独執政を行ない、

これは兼続死去まで続きます。

 

豊臣秀吉の甲冑

 

 

 

豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、

直江兼続は肥前名護屋城に滞陣し、

わずか2ヶ月間で300巻の医学書を書写させています。

また、朝鮮に渡海した後、兵士に略奪を戒めるとともに、

漢文で書かれた中国の書籍を日本に持ち帰っています。

 

 

豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)

徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元

の五大老は、秀吉の子息秀頼が大きくなるまで、

石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以ら

五奉行と後見人となる約束をしていました。

 

 

しかし秀吉の死後、主導権を得たい徳川家康は

有力武将と次々に婚姻関係を結び始めました。

 

伊達政宗の甲冑

 

 

伊達政宗の女(むすめ)を、家康の第6子忠輝に娶り、

姪松平康成の女(むすめ)を養い、福島正則の子正之に帰し、

その外曾孫たる小笠原秀政の女(むすめ)を養い、

蜂須賀家政の子至鎮(のりしげ)に配すべく約束しました。

 

 

これは秀吉時代から固く禁止されていた事で

これに怒ったのが

 

石田三成

 

 

石田三成の甲冑

 

 

石田三成は朝鮮に出兵した際に

文禄の役での待遇に不満を持っていた

加藤清正、福島正則らとことごとく対立することとなり

後の関ヶ原の合戦では家康の東軍に滅ぼされます。

 

加藤清正の兜

 

福島正則の甲冑

 

上杉謙信の23回忌に出席していた直江兼続は、

謙信の姉である仙桃院から

「堀秀治(越後に新しく赴任してきた頭首)が

上杉家に謀反の疑いがあると家康に言っていた」

と告げられました。

その話を聞いてすぐ、家康から手紙が届いたのです。

「上杉家に謀反の疑いがある。上洛して説明せよ」

という内容でした。

 

上杉に謀反の気などなく、明らかに冤罪です。

しかし、上洛すると暗殺の恐れがありました。

 

そのため上杉景勝は上洛を拒否。

 

上杉景勝の甲冑

 

 

そこで上杉家の家老である直江兼続は、

上杉に謀反の心などないということを告げるために

直江状と言われる反論書を書きました。

直江状の大まかな内容は・・・
 一、上杉景勝は会津に移されたばかりで
経営が忙しいので、上洛したくない。
10月から3月までは雪のために動けません。
一、武具の調達については

田舎者の我らは未だ戦国の世が忘れられず

武具や兵量を集めている。

それは上方の武士が茶器を集めるのと同じことだ。

田舎者とでは風習が違います。

 

一.城・橋・道路の整備をして

交通の利便性を図るのは国の勤めとして当然のことだ。

それに十方向に道を作ってしまっては、

城を守るための道の整備でないことは分かるだろうに。

 

というものでした。

 

これを読んだ家康は激怒して、上杉征伐に動きます。

家康が北上している間に

石田三成と連携した大谷吉継、島左近らの武将が

反家康勢として結束した結果

関ヶ原の戦いへと続くことになります。

 

大谷吉継

 

大病のため(ハンセン病とも言われていた)

兜はかぶらなかったとされています。

 

 

島左近の甲冑

 

 

 

その後1600年の関ヶ原の戦いでは

兼続は東軍勢力の伊達・最上軍と戦い、

その武功を轟かせました。

 

結果的には東軍に破れた直江兼続は

関ヶ原の戦いの後は上杉家存続の道を模索し、

徳川家に主従(真田信繁とは敵)関係となります。

 

翌年の慶長6(1601)年。

戦後上洛して家康に面会して謝罪した上杉景勝は、

米沢30万石に減封されました。

 

米沢では会津時代の家臣をほとんど召し放たず、

上杉家は大変な財政難のため、

老臣の中には家臣の減員を提案した者もいましたが、

兼続は断じてこれに反対し、

「かくの如き際は人程大切なるものはいない。

一同協力して復興を計るべきである」

として新季奉公の牢人連の去る者は追わずに、

旧来の家臣は一人も去る事を許しませんでした。

 

 

農民に対しては新しい田畑の開墾を奨励し、

米沢城下を流れる最上川上流に三キロにわたって

巨石を積み、川の氾濫を防止。

 

この堤防は直江石堤(なおえせきてい)と呼ばれています。

 

 

 

この他にも鉱山開発、

全国から職人を呼び寄せての鉄砲の製造など

様々な改革を施した後、

元和5年(1619年)12月19日(1619年1月23日)、

江戸鱗屋敷で病死しました。享年60歳。

 

 

直江兼続の名言

「力によってねじ伏せようとした者は

いつかそれを跳ね返そうとする。

しかし真心をもって扱われた者は心で返してくれる。」

 

戦国時代を全力で駆け抜けた素晴らしい武将でした。