【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

1月の読書記録

今日は晴れて気持ちの良い一日になりましたね。

 

 

1月は普段なかなか読めない多くの本を読みました。

 

その中でも特に印象的だったのは

陸軍大将今村均についての本です。

 

 

今村均は明治19年(1886年)に仙台市で生まれました。

 

 

東京で受験勉強していた19歳の春、

判事をしていた父の虎尾を亡くし、

母きよみが陸軍士官学校を推薦していたため

今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、

母の薦める軍隊とはどの様なものかと

青山の陸軍練兵場で催されていた

天覧閲兵式を拝観に行きました。

 

 

観兵式を終えて帰る明治天皇の姿を見ようと

天皇の乗る御料馬車に詰め寄る大群衆が

万歳を三唱する姿に

「ああ、これが日本のお国柄なのだ!」と

熱く感激した今村は、

自宅に帰るその足で郵便局に寄り、

陸軍士官学校を受験する電報を母に打ち、

郷里の連隊区で試験を受け合格しました。

 

その後陸軍士官学校を優秀な成績で卒業した今村は

陸軍大学校を首席で卒業し、恩賜の軍刀を賜りました。

 

満州事変勃発当時、独断で軍を動かす関東軍と

朝鮮師団の越境に対して、

軍事課長の永田鉄山とともに反対論を展開します。

 

 

大東亜戦争開戦後は、第16軍司令官として

オランダ領東インド(インドネシア)

を攻略する蘭印作戦を指揮。

自らが搭乗する輸送船の沈没により

重油の海を漂流しますが奇跡的に生還します。

 

ジャワ上陸作戦では、9日間で約9万3千のオランダ軍、

約5千のイギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を

無条件降伏させました。

 

この時オランダによって流刑とされていた

インドネシア独立運動の指導者、

スカルノら政治犯を解放し

資金や物資の援助や現地民の官吏登用など

独立を支援しました。

 

またオランダ統治下で歌うことが禁じられていた

独立歌「インドネシア・ラヤ」

がジャワ島で盛んに歌われていることを知った今村は、

東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれました。

 

 

終戦後に戦犯として軍法会議にかけられ

オーストラリア軍による裁判では

一度は死刑にされかけましたが、

現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定し、

1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所に送られました。

 

しかし今村は

「(未だに南方で服役をしている部下たちの事を考えると)

自分だけ東京にいることはできない」として、

1950年(昭和25年)には日本軍将兵が収容されている

マヌス島刑務所への入所を希望しました。

 

妻を通してマッカーサーに直訴した結果

マッカーサーは、

「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、

マヌス島行きを希望していると聞き、

日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。

私はすぐに許可するよう命じた」と言いました。

 

 

刑期満了で日本に帰国してからは、

東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、

戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの

質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版して

印税はすべて戦死者や

戦犯刑死者の遺族の為に用いられました。

 

「三畳小屋」の伝言―陸軍大将今村均の戦後

 

 

波乱に満ちた中でも信義を貫いた不敗の名将

 

 

戦後は清貧ながらも自分に向き合う真摯な姿に

改めて日本人のすごさを感じ

偉大な先達に恥じないような人生を生きたいと思いました。