今日は雨が降り寒い一日でしたね。
昨日は花粉症の方も多く来院されて、
外来はかなり忙しかったです。
日本には三大桜の名所と
三大桜とがあります。
日本三大桜の名所は、
それぞれ地域一帯の桜が
桜の名所として指定されています。
奈良県の吉野山があります。
吉野山は尾根全体が
ユネスコ世界遺産に登録されており、
山下の北から順に下千本、中千本、上千本、
奥千本と呼ばれるエリアごとに桜があり
全体で約200種の桜が3万本あります。
弘前公園はライトアップされた
夜桜も幻想的です。
日本三大桜は、
一本の桜の木が名桜として指定されており、
福島県の三春滝桜
山梨県の神代桜
岐阜県の淡墨桜があります。
指定されている桜の木は
いずれも1000年以上の
壮大な樹齢を重ねています。
桜の花の色が艶やかなのは
樹皮の下にある色素が移っているためと
初めて知ったのは、
詩人で評論家でもある大岡 信の
「言葉の力」の一文を読んだ時です。
「言葉の力」
人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。
しかし、私たちが用いる言葉の
どれをとってみても、
単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、
正しいと決まっている言葉はない。
ある人があるとき発した言葉が
どんなに美しかったとしても、
別の人がそれを用いたとき
同じように美しいとは限らない。
それは、言葉というものの本質が、
口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、
それを発している人間全体の世界を
いやおうなしに
背負ってしまうところにあるからである。
人間全体が、ささやかな言葉の
一つ一つに反映してしまうからである。
京都の嵯峨に住む染織家
仕事場で話していたおり、
志村さんがなんとも美しい
桜色に染まった糸で織った
着物を見せてくれた。
そのピンクは淡いようでいて、
しかも燃えるような強さを内に秘め、
はなやかで、しかも
深く落ち着いている色だった。
その美しさは
目と心を吸い込むように感じられた。
「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」と志村さんは答えた。
素人の気安さで、私はすぐに
桜の花びらを煮詰めて
色を取り出したものだろうと思った。
実際はこれは
桜の皮から取り出した色なのだった。
あの黒っぽいごつごつした桜の皮から
この美しいピンクの色が取れるのだという。
志村さんは続いてこう教えてくれた。
この桜色は
一年中どの季節でもとれるわけではない。
桜の花が咲く直前のころ、
山の桜の皮をもらってきて染めると、
こんな上気したような、
えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
私はその話を聞いて、
体が一瞬ゆらぐような
不思議な感じにおそわれた。
春先、もう間もなく花となって
咲き出でようとしている桜の木が、
花びらだけでなく、木全体で懸命になって
最上のピンクの色になろうとしている姿が、
私の脳裡にゆらめいたからである。
花びらのピンクは幹のピンクであり、
樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。
桜は全身で春のピンクに色づいていて、
花びらはいわばそれらのピンクが、
ほんの先端だけ
姿を出したものにすぎなかった。
考えてみればこれはまさにそのとおりで、
木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、
春という時節に桜の花びらという
一つの現象になるにすぎないのだった。
しかしわれわれの限られた視野の中では、
桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。
たまたま志村さんのような人がそれを
樹木全身の色として見せてくれると、
はっと驚く。
このように見てくれば
これは言葉の世界の出来事と
同じ事ではないかという気がする。
言葉の一語一語は
桜の花びら一枚一枚だといっていい。
一見したところ
ぜんぜん別の色をしているが、
しかし、本当は全身で
その花びらの色を生み出している大きな幹、
それを、その一語一語の花びらが
背後に背負っているのである。
そういうことを念頭におきながら
言葉というものを
考える必要があるのではないか。
そういう態度をもって言葉の中で
生きていこうとするとき、一語一語の
ささやかな言葉の、
ささやかさそのものの大きな意味が
実感されてくるのではないだろうか。
美しい言葉、正しい言葉というものも、
そのときはじめて
私たちの身近なものになるだろう。
という内容でした。
言葉の大切さを意識して
これからも過ごしていきたいと思います。