今月は仙台の七夕祭りがありました。
夜空の三日月を見ると、
仙台ゆかりの伊達政宗の兜を思い出します。
伊達政宗は、1567年(永禄10年)、
伊達輝宗の嫡子として
米沢城に誕生しました。
母は最上義光の妹。
幼名は梵天丸。
5歳の時に疱瘡のため
右目を失明して以来
陰険な性格となっていましたが、
政宗の養育を任されていた
片倉小十郎景綱が右目を抉り取ると、
政宗は暗い性格から、
快活で文武両道に精進する
たくましい少年に変貌します。
11歳で元服し政宗と改名します。
1579年に13歳で田村清顕の娘、
12歳の愛姫を正室に迎えます。
伊達政宗の異名である「独眼竜」は、
中国の後唐の第一世昭宗・李克用が、
片目でありながら英傑で
独眼竜とよばれた故事によります。
当時の東北地方は有力大名が多く
勢力争いが絶え間なく続いていました。
1584年(天正12年)、
政宗は18歳で家督を相続しましたが、
1585年(天正13年)、
伊達家に属していた小浜城主大内定綱が
田村清顕から脱却して蘆名(あしな)家に通じると
政宗は田村清顕に加担して
大内定綱の親族である
菊池顕綱の小手森城を攻め落とします。
(小手森城の戦い)
大内定綱は二本松城の畠山義継に
助けを求めて逃げ込みました。
政宗の勢いを恐れた畠山義継は
政宗の叔父、
伊達実元(だてさねもと)
を通して和睦を申し入れました。
1585年(天正13年)10月8日
和睦が結ばれましたが、
そのお礼に畠山義継が政宗の父、
伊達輝宗を訪れた際、
会見の後に突然輝宗を拉致し
領土の二本松城に立てこもります。
父を奪回しようとした政宗は
栗の須で鉄砲隊に攻撃を命令、
父輝宗とともに畠山義継を
殺害してしまいます。
父の伊達輝宗は
「自分を気にして家の恥をさらすな。
わしもろとも、こ奴を撃て」
と叫び、自らの命を顧みずに
政宗に後を託して亡くなったと言われます。
その後1585年(天正13年)
佐竹氏と蘆名(あしな)氏の連合軍と対決
(人取橋の戦い)
数で劣っていた政宗は窮地に立たされますが
佐竹氏の武将小野崎義昌が家臣に殺害されると
佐竹氏は混乱し撤退することとなりました。
この時期豊臣秀吉は天下をほぼ手中に収め、
残すは最後の関東・奥州だけとなっていました。
秀吉は朝廷から関白の地位を得て、
天皇から全国の統治をまかされたとして、
1587年に「惣無事令」を発しました。
これによって大名間の領土紛争などは
私戦とみなして禁じられ、
調停は全て豊臣政権が
その最高機関として処理にあたり、
これに違反する大名には
厳しい処分を下す事を宣言したものです。
帰参命令が出されていた政宗でしたが、
それを無視して会津の
蘆名氏を攻め滅ぼしました。
(摺上原の戦い)
このことで政宗は
秀吉から怒りをかうことになります。
その後秀吉に謁見した政宗は
白装束で秀吉の前に現れ、
巧みに危機を脱しました。
さらに天下人となった秀吉から、
謀反の疑いをかけられますが、
その都度秀吉を驚かせるような
機転の利いた対処で難を乗り切っています。
結果秀吉は三度も政宗を許しています。
政宗は家督相続からわずか6年ほどで、
東北地方に福島の浜通り地方を除く福島、
宮城両県から岩手県にまたがる
広大な一大勢力を築きあげました。
能や和歌など多彩な趣味を持ち、
酒好きで料理も得意で
仙台城の築城に際して味噌を製造するため
場内に御塩噌蔵(ごえんそぐら)を建て
筑紫国から職人を呼び寄せたのが
仙台味噌の始まりとされています。
政宗公御名語集には
「馳走とは旬の品をさり気なく出し
主人自ら調理して、もてなすことである」
との言葉があり、
服部栄養専門学校や宮城調理製菓専門学校などの
校訓として使われています。
晩年まで三代将軍・家光の時代まで仕え、
家光からは多大な信頼を得て、
幕府や他の大名からも一目置かれていました。
享年七十歳。江戸で死去。
政宗が築いた仙台藩は
東北地方の有力勢力として存在し続けました。
また伊達政宗に関するエピソードを
紹介したいと思います。