今日は少し寒い1日になりましたね。
以前めまい学会で山口へ行きましたが、
岩国城に関する歴史を調べていくと、
吉川(きっかわ)広家と関係の深い
毛利輝元の祖父である毛利元就が、
戦国時代を生き抜いた
際立った人物として浮かび上がります。
毛利元就
毛利家は戦国時代、
出雲の尼子氏と周防の大内氏に囲まれ
どちらに従属するかで
常に揺れ動いていました。
毛利元就は瀬戸内海に水軍を持っていた
小早川氏に三男の景隆を、
安芸、石見に勢力を持っていた吉川氏に
次男の元春をそれぞれ養子として送り込み、
小早川家、吉川家を継がせることで
一族に徐々に力を蓄えていく基盤としました。
その後は謀略をめぐらせて
陶晴賢(すえはるたか)の大軍を撃退した
厳島の戦いを契機に勢力を一気に拡大します。
1555年、5月には宮島を占領した毛利元就が
交通と経済の要所である厳島の宮尾城に入り、
己斐直之、坪井元政ら
500の兵を城の守備に当てました。
この時元就は陶晴賢を宮尾城におびき出すため、
敵陣に入れた忍び(スパイ)に
「宮尾城に攻め込まれたらもう終わりだ・・・」
と嘘の情報を流し、
晴賢の軍を自分に有利な地へ呼び込んだのです。
9月15日、毛利家と大内家が衝突した
折敷畑の戦い(おしきばたのたたかい)
での敗北に激怒した陶晴賢は
自ら大軍を率いて厳島の宮尾城攻略に乗り出します。
9月21日、陶晴賢は岩国付近に集結していた
500隻の船を厳島に向かわせ、
大元浦から上陸し勝山城に入りました。
宮尾城を包囲するために
厳島神社付近の塔の丘に本陣を移します。
9月24日、元就は晴賢が厳島に上陸したと知ると
毛利軍は佐東銀山城を出陣し、
水軍の基地である草津城に入ります。
この時の毛利軍は約5.000人。
対する陶軍は20.000人と言われます。
元就の軍は兵数が圧倒的に少なかったため、
婚姻関係にあった村上水軍の
村上武吉や村上通康に
「1日で良いから加勢してほしい。」
と援助を求めました。
戦いは数で勝る陶晴賢の軍が
宮尾城を攻め続け
水源が断たれ堀も埋められて、
まさに陥落直前の状況となります。
9月28日、毛利元就は草津城を出て、
広島の地御前に全軍を前進させます。
なかなか現れない村上水軍の到着を
一時は諦めていた元就でしたが、
ようやく約300隻の村上水軍が到着し、
9月30日、毛利元就の本隊と小早川隊ともに
夕方から起きた暴風雨の中、
これを天のご加護であると将兵を鼓舞し、
夕闇と嵐に紛れて密かに厳島に上陸。
村上水軍は沖合で待機します。
合戦当日の10月1日朝6時、
ついに毛利軍の奇襲攻撃が開始されました。
陶晴賢軍の背後から毛利軍が攻め入り
それに呼応して元就の三男
小早川隆景率いる部隊と、
宮尾城に籠城していた兵が
陶軍本陣のある塔の丘めがけて一気に駆け下りました。
前後方から同時に攻められた
陶晴賢軍は不意を突かれて大混乱を来して遁走。
海上に逃げた兵も、
待ち受けた村上水軍に討ち取られて
およそ4.000人の死者が出たとされています。
この際陶晴賢の家臣であった弘中多隆兼は
毛利軍の追撃を防ぐために
厳島の民家に火を放ちました。
これを見た毛利元就の次男・吉川元春は、
『敵を逃しても構わない。
しかし厳島神社の社殿を焼失させてしまった
となれば末代までの恥。』
と、攻めて来る敵がいる中、
消火活動を優先させています。
元春は戦いに強いことで知られた武将でしたが、
そのような政治的な配慮ができる一面も持っていました。
村上水軍については、
みなと赤十字病院耳鼻咽喉科
新井基洋先生に紹介していただいた
が当時の様子がよくわかり、とても参考になります。
この戦いを機に毛利家は支配領域を広げ、
すぐに周防と長門への侵攻を開始しました。
そして2年後までには大内義長を自害に追い込み、
大内氏を滅亡させています。
義長は謀反人である晴賢が担いだ主君でしたので、
これを討つことは義隆の仇討ちにつながる、
という大義名分を用いたものと思われます。
こうして元就は、安芸・周防・長門の
3カ国を支配する大大名の地位につきました。
そして後に尼子氏をも攻め滅ぼし、
中国地方8ヶ国の領主としての
強大な戦国大名となりました。
元就は長男の毛利隆元、
次男の吉川元春、
三男の小早川隆景
に対して、目の前で矢を折るようにと命じだ際、
一本ではたやすく折れる矢も
三本まとめると折れないことから、
今後は三人の兄弟が支えあって
毛利家を守るようにという訓話を残しました。
また吉川元春は
広島県出身のミュージシャン・吉川晃司さんの
ご先祖様になります。
サッカーのJリーグサンフレッチェ広島は
日本語の三(サン)と
イタリア語の矢を表すフレッチェ
を組み合わせたチーム名となっていますが、
毛利家の逸話をモチーフにして
三つの矢がエンブレムに取り入れられています。
厳島神社には学会中に訪問できなかったので、
いつか戦場となった毛利家ゆかりの場所を
見に行ってみたいと思います。