【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

戦国大名 尼子経久

今日は晴れていいお天気になりましたね。

 

 

年末から年始にかけ読んだ本の中で、

歴史の失敗学は大変面白かったです。

 

 

毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才と言われ

下克上の体現者である

尼子経久(あまごつねひさ)

についての話が印象的でした。

 

 

一代で出雲半国の一勢力から

十一州の太守と称されるまでに

山陰での勢力を拡大した戦国大名です。

 

 

尼子経久は長禄2年(1458年)に

出雲守護代を務めた

尼子清定の嫡男として生まれました。

 

尼子氏は、室町幕府の要職である京極氏の家系であり、

出雲の守護代として活躍します。

 

応仁の乱が起こると守護京極持清は、

東軍の有力武将として京都・近江に転戦し、

出雲は守護代尼子清定に全面的に一任せざるを得ませんでした。

 

経久は、主君であった京極政経から

「経」の一文字を拝領して「経久」を名乗り、

文明10年(1478年)頃20 歳で

家督を継いで尼子家当主になりました。

 

 

応仁の乱から11年が経過して

幕府の権威が弱まりつつあった時代で

このため経久も主家・京極氏や

幕府を無視した政策を行い

公用銭や寺社本所領などを横領して財源を確保しましたが、

文明16年(1484年)に足利幕府に守護代職を罷免され

居城であった月山富田城を攻めらて追放され、

諸国を放浪します。

 

 

文明18年(1486)、元旦祝いの芸人集団(蜂屋党)

にまぎれこみ、富田月山城中に潜入して放火。

 

火災の混乱に乗じて、城内の塩冶掃部介を殺害し

月山城を奪回しました。

 

その後出雲の有力豪族である三沢、三刀屋氏らを屈服させます。

 

 

永正5年(1508)には、日明・朝鮮貿易を牛耳って

周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し

栄華を誇った大内義興

 

 

が前将軍である足利義尹を奉じて上洛します。

 

細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱

に乗じた挙兵でしたが、経久も帯同します。

 

その後先に帰国した経久は、

大内義興のいない隙を突いて

近隣の石見、安芸、因幡、伯耆、美作、但馬、

備後、備前、備中などに勢力を伸ばしました。

 

 

大永2年(1522)、尼子氏に寝返った毛利氏とともに

安芸で大内義興と戦い、

大永4年(1524)の金山付近の戦いで大勝をおさめ

伯耆の国(ほうきのくに)の大半を支配下に置き

山陰山陽の諸国を併せて11ヶ国にまたがる太守となりました。

 

 

天永7年(1527年)には

大内義興、陶隆房に細沢山の戦いで敗れ

安芸・備後の支配権を失い

天文3年(1534年)、西出雲を治め対立していた

三男、興久が知行の不平から謀反を企て、

討伐されて自害したため家勢は衰えます。

 

天文6年(1537年)、戦死した嫡男政久の子、

詮久(尼子晴久)に家督を譲ります。

 

 

若き詮久は血気盛んで、大内氏に奪われていた

石見銀山の奪回を皮切りに備前・美作、播磨へと進軍し、

室町幕府の名族・赤松政村を放逐します。

 

 

この石見銀山の資金力が大きな財政基盤となり

国の運営は安定化します。

 

天文9年(1940年)尼子晴久(詮久)が毛利元就と対決。

武田信実を担いで30.000もの大軍で

吉田郡山城を攻囲しますが

籠城した毛利元就軍を攻めあぐねて

毛利元就の計略と、大内家、陶隆房の援軍による

背後からの奇襲により

尼子晴久はまさかの大敗となり撤退します。

吉田郡山城の戦い

 

天文10年(1541)10月13日、

尼子経久は月山城で84歳の生涯を閉じます。

 

 

この地方の歴史を見ると

毛利元就や多くの戦国大名がひしめき合っていて

複雑な勢力争いが大変興味深く

これからも戦国武将の生涯を調べてみたいと思います。