今日は晴れて気持ちのいい一日になりましたね。
11月のめまい平衡医学会で富山県に行きましたが
学会の合間に富山城を見て来ました。
富山城は1543年(天文12年)
越中の守護代神保氏支配下にあった豪族
水越勝重が築城したと言われています。
その後勝重は神保長職と改名し
神保氏三代の居城となりましたが
1560年(永禄3年)、上杉謙信との戦いで落城しました。
1578年(天正6年)謙信の没後には
上杉家の家督争いを見た織田信長が
越中の武将を助けるために進出し、
重鎮の1人である越後小丸城主
佐々(さっさ)成政
に54万石を与えて富山城主としました。
1582年(天正10年)、本能寺の変で
織田信長が明智光秀に討たれ
佐々成政は上杉氏を越後に追いやり、越中を平定します。
1584年(天正12年)、豊臣秀吉と徳川家康が対立した
小牧長久手の戦いでは、当初佐々成政は
秀吉に味方するそぶりを見せました。
その後秀吉側についた加賀の前田利家の領地に攻め込んだ
末森城の戦いでは徳川家康と手を組みます。
加賀と越中の国境の要所である末森城ですが
利家が30km離れた金沢城にいる間に
成政はほぼ落城寸前まで攻め至ります。
この時前田利家は秀吉の命令により、
金沢で城を守るよう指示されていました。
末森城を守る奥村永福(ながとみ)は
本丸で何とか抵抗を続けましたが落城寸前、
妻・やすは奮闘も目覚しく城兵を励まし、
傷者をいたわり、かいがいしくかけめぐりました。
佐々成政は最後の留めを翌日に持ち越すことにしたところ
秀吉の令を破って前田利家軍が夜間に救援に向かいます。
前田軍は守りの薄い海岸沿いを進軍し、
佐々成政軍の裏に回って夜明けとともに
奇襲を仕掛けて佐々軍を撃退しました。
その後秀吉と成政の主君である織田信雄との間で和議が成立し
徳川家康が停戦すると、
東には宿敵上杉景勝、西には前田利家と
四方を敵に囲まれた佐々成政は家康に再挙を促すため、
積雪が18~20mもあり、雪崩も多く、
零下20~30度と極寒の山岳地域である
北アルプス飛騨山脈を踏破し
(さらさら越え)
浜松城の家康に説得を試みましたが、失敗に終わりました。
家康側近・松平家忠の史料「家忠日記」の
天正12年12月25日の項に明記された史実です。
その後秀吉は佐々成政を討伐するため
織田信雄を総大将として富山城を攻撃しました。(富山の役)
秀吉は成政勢に対して総攻撃を開始しようとするも
織田信雄からの助命を受けて
「出家するなら墨染の衣で陣に来て詫びよ。
さすれば新川一郡を与えてその身はお構いなし。」
と成政に通告します。
成政は通告を受けて
呉羽山の下安養坊で剃髪して謹慎の意を表し、
丘陵を埋めた軍勢の間を通って白鳥城におもむき、
正式に秀吉に降伏しました。
成政の降伏姿を前田の軍勢がドッと笑って侮辱したといいます。
成政は領国越中の半分の没収され、
新川一郡の領主となりましたが、
秀吉の九州遠征に帯同後
天正十五年には国替えを命じられ、
肥後(現・熊本県)一国の領主にされました。
しかし肥後で検地を厳格に実施したため
一揆騒動が勃発し、九州の治安が混乱したために
成政はその責任を問われて召し還され、
摂津・尼崎の法園寺で切腹させられます。
成政の一人の娘は狩野永徳の子・尚信に嫁ぎ、
その子は守信(すなわち有名な狩野探幽)です。
鳳凰図
成政の孫が日本を代表する大画家になり
日本文化史上に大きな足跡を残すこととなりました。
立山から激落してくる常願寺川は
氾濫が多い暴れ川でしたが
その馬瀬口に佐々堤を築いて洪水から守り、
常願寺川からの分水いたち川を大修築して
農耕・水運・防備の有用河川に仕上げた治水の功績は大きく、
成政は富山の恩人でした。
富山城と佐々成政についてのエピソードを調べると
色々な歴史上の事がわかって良かったです。
これからも学会で訪れた地方のことを調べていきたいと思います。