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【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

台湾と日本の絆

今日も晴れてさわやかな一日になりましたね。

 

 

東日本大震災の義援金で

世界で最も多くの金額を送ってくれたのは台湾です。

 

その額は総額253億円で、

人口2300万人の国としては異例の高額です。

 

 

 

 

また野球の国際試合、

WBCの日本対台湾の試合

観客が東日本大震災の支援に対する

感謝の気持ちをボードを持って表し、

試合後に台湾の選手がマウンドに集まって円陣を組み

客席に向かってお礼をするという

感動的な場面がありました。

 

 

 

 

なぜ台湾は親日なのでしょうか。

 

それは日本統治時代の台湾に対し、

インフラや教育の発展に尽くした

多くの日本人達のおかげです。

 

 

 

明治28年(1895年)、

日清戦争の結果台湾は日本に割譲されましたが

当時はマラリアが蔓延し、

ゲリラやアヘン中毒者も多く治安も悪く

産業も何もない荒廃地でした。

 

明治31年(1898年)、陸軍の重鎮である

児玉源太郎が第四代台湾総督に就任、

「同じアジア人として台湾の近代化に尽くす」

という方針で

 

 

民政局長に後藤新平を招聘しました。

 

後藤新平の仕事

 

 

医師である後藤新平は、

ダーウィンの進化論に習い

新領土の社会を一つの生命体として、

その悪しき体質を徐々に改善させて

本来の良き生命力を引き出して成長させるという

「生物学の法則」を方針としていました。

 

 

 

 

後藤新平は当時暗躍していたゲリラに対して

「新総督としては、島民の一家団欒を望んでいる。

帰順したいものは自由に官邸に来てよろしい。

もしこれを疑うなら

民政長官の側からそちらに出向いて話し合っても良い。」

と投降を呼びかけ、

ゲリラには職を与えて投降後の生活まで面倒を見ました。

 

インフラ整備にも力を入れて

道路や鉄道、港を整備し

上下水道まで完備しましたが、

この時に整備されたインフラが、

現在の台湾経済を支えています。

 

 

 

 

さらに後藤新平は、

農業の専門家である新渡戸稲造を二年間かけて説得し

台湾総督府の技師として迎え入れました。

 

新渡戸稲造

 

彼はジャワにまで研究に行き

これまでのサトウキビの品種改良と

耕作方法改善を提言して

児玉源太郎と後藤新平が実行した結果、

砂糖の生産量が明治33年(1900年)

の3万トンから昭和12年(1937年)には

100万トンにまで飛躍的に増大しました。

 

 

 

また大正7年(1918年)に赴任した

第七代台湾総督の明石元二郎は、

「台湾は東洋の心臓である」

をモットーに台湾電力を設立し、

水力発電事業を推進、

海岸線鉄道の開設や司法改革のほか

日本人と台湾人が均等に

教育を受けられるように法律を改正しました。

 

 

 

この改正により台湾人にも

帝国大学への進学の道が開かれ

李登輝元総裁は京都帝国大学に進学しました。

 

李登輝氏は95歳となり、

今でも日本と台湾のためにご活躍ですが、

秘書である早川友久さんの記事

大変興味深い内容です。

 

 

 

 

ほかにもマラリアやコレラの撲滅に尽力した

医師の堀内次雄など

優秀な多くの日本人が台湾の発展に

大きく寄与しました。

 

 

 

特に八田與一は台湾農業発展のために

烏山頭ダムを十年がかりで建設し

それまで農業に適さなかった

16.000キロに及ぶ広大な土地を改良して

農作物の生産量を飛躍的に増大させました。

 

八田與一は大東亜戦争中フィリピンに移動の際

搭乗した大型客船「大洋丸」が

アメリカの潜水艦に魚雷攻撃されて沈没し、

56歳で亡くなりました。

 

戦後に残された妻の外代樹(とよき)も

烏山頭ダムに投身自殺するなど、

台湾の方にとって忘れることの出来ない恩人でした。

 

 

 

 

アンパンマンの物語でも紹介した

門田隆将さんの著作には

優れたものが多く、どの作品も印象に残りますが、

台湾の独立に日本の軍人

根本博中将が関わったという内容の本があります。

 

この命 義に捧ぐ

 

 

第二次大戦が終わり、

日本軍が中国大陸から撤退した1946年

蒋介石の中華民国政府と

中国共産党の間で第二次国共内戦が勃発しました。

 

 

 

蒋介石が終戦時に日本軍に対して

寛大な措置を講じるよう

「恨みに報いるに恨みをもってするなかれ」

とラジオを通じて国民によびかけた結果

多くの軍人と家族が大陸から

無事日本に戻ることが出来ました。

 

 

 

根本中将はこうした寛大な措置に大きな恩を感じ、

かつての敵将蒋介石のために

戦後台湾へ密航を企てます。

 

その際に明石元二郎の息子である

明石元長の手引きを得て

釣竿一本で台湾に渡り、金門島で共産党軍と対峙

作戦を指揮、島民を移動させて

民間人の死傷者を出すことなく戦闘に勝利して

台湾の独立を守って蒋介石の恩に報いました。

 

 

 

かつての敵将を助け、

台湾の共産化を防いだ功績は大きく、

台湾が現在も発展している元となっています。

 

 

 

台湾が親日なのは多くの優秀な日本人のおかげです。

今後も台湾と日本の歴史的な交流について、

エピソードを紹介できればと考えています。