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【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

尼子氏 大内氏と毛利元就

今日はかなり暖かい一日になりましたね。

 

 

戦国時代に関する本をいろいろと読んでいますが、

こちらは戦国史が一目でよくわかる本です。

 

一冊で学び直せる戦国史の本

 

戦国時代の勢力図がわかりやすく図解で

示されていて、中国地方での

尼子氏と大内氏、毛利元就との関係も

簡潔にまとめられています。

 

 

 

毛利元就

 

 

天文9年(1540年)尼子詮久(あきひさ)は

大内氏に転じた裏切り者である

毛利元就を討伐するため

叔父の国久に命じて毛利氏の本拠地である

吉田郡山城の動きをさぐらせようとします。

 

 

国久は月山北麓の新宮谷に居を構えていたため

国久率いる一党は新宮党と呼ばれ

尼子軍の主力をなしていました。

 

その後尼子軍は郡山城を

30000の大軍で攻めますが、

籠城する2400余りの

毛利元就軍を攻略できずに撤退します。

(郡山吉田城の戦い)

 

 

天文11年(1542年)

大内義隆が長男の晴持(義嗣子)、

その他叔父の大内輝弘、

家臣の陶隆房、杉重矩(しげのり)らに加えて

毛利元就、熊谷信直らとの4万の兵で

尼子晴久(詮久より改名)の出雲に出兵します。

 

大内義隆

 

4月に大内勢はまず出雲、備後、石見の境に位置する

重要な拠点・赤穴(あかな)城を攻撃します。

 

まずは熊谷直続が攻撃を命じられますが、

あえなく失敗し討死してしまいます。

 

7月に陶隆房、平賀隆宗、吉川興経らで総攻撃。

ここで流れ矢に当たって城主の赤穴光清が討死すると、

赤穴勢は一気に勢いを失い、ようやく開城します。

 

 

天文12年(1543年)1月大内陣営内で

強攻派と持久戦派とに意見が分かれます。

 

特に陶隆房の重臣である田子兵庫助と、

毛利元就が真っ向から対立。

 

田子兵庫助は

「富田のすぐそばに京羅木山があり、

この山に本陣を置いて富田城を一気に攻めるのがよい」

と強攻策を主張します。

 

一方、毛利元就は

「尼子はまだ力を温存しているから、

まずは遠く離れたところに陣を据えて

周辺の国人領主の調略から進めるべきである。

そうすれば尼子は孤立して敗北するだろう」

と持久戦を主張。

 

元就は再三持久戦にすべきと訴えますが、

大内家中では譜代の重臣・陶隆房の信任が厚く、

結局陶隆房側の意見が採用されてしまいます。

 

 

 

3月、京羅木山に本陣を移した大内軍は

総攻撃を開始します。

 

戦況は圧倒的な戦力の大内方に有利に進みますが、

攻防戦は長期化し、

4月末には大内方についたはずの

三刀屋久扶(みとやひさすけ)、山名理興

三沢為清、本城常光らが再度寝返り、

尼子方に転じます。

 

この中には元就が大内氏との関係を取り持った

吉川興経もいました。

 

尼子氏に寝返る武将が続出したことで、

大内氏の包囲網は崩れてしまいました。

 

また尼子氏がゲリラ戦術を用いて

大内軍の補給線と防衛戦を分断し

補給路が断たれたことで

大内氏にとって不利な状況になります。

 

力攻めで突き進んできた大内氏軍は

すでに尼子氏側の領地奥深くまで侵入しており、

このままいけば退路まで断たれてしまうという

危険な状況に陥っていました。

 

 

大内義隆は5月7日に全軍撤退を決定。

海路をとって退却した大内晴持の部隊は

我先にと舟に乗り込む兵が殺到し、小舟が転覆。

晴持はそこで溺死してしまいました。

友軍であった小早川正平も伏兵にあって戦死しています。

 

義嗣子である晴持は

義隆の姉の子で、公家・一条家の血を引いていました。

 

美しい容貌で、和歌や管弦、

蹴鞠の才に秀でていましたが

その大切な息子の死で意気消沈した義隆は

以後政治や戦への関心を失い、

公家の人々と遊び耽るようになります。

 

 

殿(しんがり)を務めた

元就・隆元親子は尼子軍に追われながらも

必死に逃げて出雲から石見に入りますが、

出雲と石見の国境に位置する

石見大江坂七曲で尼子軍に追いつかれます。

 

ここで毛利配下の多数の将兵が討死し、

家臣・渡辺通が毛利元就の甲冑をつけて

身代わりとなって戦い、見事討死したため、

元就自身やっとのことで難を逃れます。

 

 

元就は窮地を救った忠臣への恩を忘れず、

渡辺通の遺児を別格扱いにしています。

 

毛利家では正月の甲冑開きの儀式を

代々渡辺通の子孫に任せ、

それは江戸時代に入っても続きました。

 

 

尼子晴久は籠城して

1年4ヶ月にも及ぶ持久戦を戦い抜きます。

 

この戦いで大内義隆と毛利元就を破った

尼子氏は息を吹き返し

月山富田城の戦い

石見銀山も奪回しました.

 

 

大内義隆は

後継者である20歳の大内春持を

目の前で失ったことで失意のまま帰国、

領土的野心を失うようになり

以後文治派の相良武任らを

重用するようになります。

 

陶隆房は大内義隆の享楽的な態度

文治派が力を持ったことにも

大きな不満を抱きはじめます。

 

 

天文20年( 1551年)

フランシスコザビエルは念願であった

山口でのキリスト教布教の許可を取り付けました。

 

大内義隆は大道寺をザビエルに与え、

キリスト教布教の拠点としました。

 

そんな大内義隆に対して

陶隆房はクーデターを起こし

公家の冷泉隆豊らとともに逃れますが、

9月1日大寧寺で自害に追い込まれます。

大寧寺の変

 

 

 

空いた大内当主の座に据えたのが、

義隆の養子の大友晴英(はるひで)で、

大友義鎮(よししげ/のちの宗麟)の弟でしたが、

大内義隆が後継者として育てた

晴持が亡くなった際に

大内家の猶子となった経緯があります。

 

のちに義隆の実子・義尊が生まれたため、

猶子ではなくなっていましたが、

隆房によって飾りの当主に立てられたのです。

 

このとき、義隆の名を受けて賜った

「隆房」の名を捨て、

晴英の「晴」の字を賜って

「晴賢」と名乗るようになりました。

 

晴英もすぐに「義長」と改名しています。

 

 

大内家を乗っ取った陶晴賢は、

1553年(天文22年)、義隆と縁のある

石見三本松城主の吉見正頼と対立します。

 

吉見討伐には元就らにも出陣を要請していたのですが、

吉見正頼と陶晴賢から同時に出陣要請を受けた

毛利元就は、熟慮の末に

陶晴賢との対決を決意しました。

 

 

天文23年(1554年)毛利元就は

尼子の精鋭である新宮党(しんぐうとう)

を崩壊させるための作戦を開始します。

 

元就は、「新宮党が毛利に近づいている」

という噂を流しました。

 

尼子氏の結束が強ければ

こんな噂は鼻で笑われておしまいですが、

尼子氏は一枚岩ではありませんでした。

 

もともと精鋭の新宮党と、尼子当主尼子晴久とは

折り合いが悪かったのです。

 

力のある新宮党は驕り高ぶり、

晴久はそれを疎んじていた事もあり、

また元就の第二の矢、

「毛利と通じている証拠の密書」

を晴久の手に渡らせることで、

疑念を抱かせたのです。

 

晴久は元就の策にまんまとハマり、

新宮党の国久とその子・誠久(まさひさ)、

敬久(たかひさ)を粛清。

これで新宮党は自滅してしまいました。

新宮党の変

 

毛利にとっては不安材料が一つなくなったことになります。

 

さらに1554年(天文23年)、毛利氏は

村上水軍の一族である

村上通康と婚姻関係を結びました。

 

 

天文24年(1555年)厳島の戦いで

毛利元就が陶晴賢に圧勝。

 

永禄3年(1561年)尼子晴久が病死し、

毛利元就が怒涛の進撃を開始、

5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し

戦国大名尼子氏は3代で滅亡しました。

第二次月山富田城の戦い

 

 

尼子氏と大内氏

毛利元就の勢力争いは謀略と裏切りの連続で

目が離せない展開を見せました。