【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

肥後細川庭園と永青文庫

終戦の日に文京区にある肥後細川庭園と永青文庫に行って来ました。

 

 

肥後細川庭園は、目白台台地が神田川に落ち込む地形を活かし、

崖下からの湧水を引き込んだ大きな泉水(池)を中心とした

面積1万8500平米の広大な回遊式庭園です。

 

 

 

庭園の木々は手入れが行き届いていて

青空に緑が映えてとても綺麗です。

 

 

結婚式の記念写真を撮っている方もいらして

自然に囲まれていい雰囲気です。

 

 

 

 

かなり広大な庭園で、都心であることを忘れるほどです。

 

 

 

 

この土地は幕末に細川家の屋敷となりました。

 

 

 

 

昭和35年(1960年)に東京都が土地を買い取り

 

昭和50年(1975年)、文京区の移管されて現在に至ります。

 

 

 

 

庭園から永青文庫まで遊歩道を通って行くことが出来ます。

 

 

 

 

永青文庫には細川家に伝わる歴史的資料が展示されています。

 

 

 

 

熊本城の城主は加藤清正(1562~1611)

佐々成政の跡を受けて肥後半国の領主に抜擢されます。

 

 

 

関ヶ原の合戦後には

九州における東軍大名としての戦績が認められ

肥後54万石の領主となりました。

 

 

 

 

細川忠利

寛永9年(1632年)肥後熊本藩の加藤忠広の子

光正の謀書事件を契機として加藤忠広が改易されたため

小倉から熊本に移封され初代藩主となりました。

 

細川家の家紋

 

 

以降明治4年(1871年)に熊本県が誕生するまで

240年間にわたって細川家は熊本城とともにありました。

 

 

 

 

忠利の父の細川忠興

天正10年(1582年)の本能寺の変の際

明智光秀から味方になるよう依頼されながらこれを拒否し

秀吉から信頼を得ました。

 

また関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に参加することを表明し

大阪城内に幽閉されていた

妻のガラシャ(明智光秀の娘)

は西軍の石田三成の人質となることを拒み自害しました。

 

 

 

 

細川忠興

山鳥尾頭立越中兜 黒糸威二枚胴具足

 

 

実物は左腰の部位が鮮やかな赤い色で

敵に対しての識別色となっていました。

 

特徴的な兜ですが、山鳥の尾の部分がとても綺麗です。

 

 

 

 

桜金物紺糸威胴丸具足(細川家8代 細川重賢所用)

 

 

 

こちらも迫力のある甲冑です。

いずれも時間をかけてゆっくりと見られて良かったです。

 

 

細川家第18代当主

細川護熙元首相は現在は陶芸家としてもご活躍中です。

 

日経新聞「私の履歴書」の中で

細川家の家訓について記載しています。

 

「細川家は記録を大事にする家で、江戸時代265年間、

担当者が毎日欠かさずつけていた日誌もある。」

 

この継続した記録があったからこそ

貴重な資料館が出来たのだと思います。

 

 

 

今回母の実家である熊本に

ゆかりのある武将について

さらに知識を深めることが出来ました。

 

 

熊本城や細川家のエピソードについて

これからも勉強しようと思います。