今日は曇りで湿気の高い一日でしたね。
3月に読んだ本を紹介します。
平山 優
真田信繁の戦時の判断や行動など
興味深い内容が書かれています。
以前学会の際、長野県の上田城や
大坂城、岡山城を見ていて、
戦国時代に思いをはせていたので
当時の合戦の様子が想像できて良かったです。
豊臣秀吉が亡くなり
1600年(慶長5年)
家康の上杉征伐の遠征を契機に起こった
関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると
徳川家康の勢力が増大します。
1614年(慶長19年)
方広寺鐘銘事件をきっかけに
家康は秀頼を傘下に収め
コントロールしようとしますが
秀頼は提示された条件
・大坂城を退去
・淀君を江戸に人質として送る
・他の大名と同じように駿府と江戸に参勤
を拒否、大坂冬の陣が起こります。
大坂城
大坂の様子を見ていた
イギリス商人のウイリアム・イートンは
平戸のリチャードコックスに書簡を送り、
この地域では火薬の需要が増加しており
高値で売れるので、平戸に保管されている
全ての在庫を配送するよう依頼しました。
両軍の物資確保の経済戦争は
諸大名や民衆の生活を逼迫させました。
こうした中で始まった大坂冬の陣。
徳川家康の東軍は戦闘経験者が少なく
城外の真田丸を攻撃しますが
特別な理由なく軍勢が崩れる味方崩れや
味方打ちが頻発し、
大坂城の堅い守りを切り崩せずに終わりました。
籠城していた西軍も弾薬や少量が底をつき
お互いの利害が一致した結果、停戦となります。
この際家康は大坂城に籠城した牢人集を
追放することを主張しましたが
秀頼は味方をないがしろに出来ず
徹底抗戦を主張する牢人を抑えきれなかったため
夏の陣に至ることとなりました。
その後夏の陣では大坂城の外堀を埋められ
打って出るしかなくなった西軍は
49歳の真田信繁が奮闘し、
「日本一の兵(つわもの)」
「古今これなき」と謳われるほどの活躍で
家康本陣直前まで敵を追い詰めました。
西軍優勢で戦いが進み
豊臣秀頼に直に出馬するよう
大野治長が大坂城に戻った時に、
そのことを知らない城の人々が
敗走してきたと勘違いして混乱してしまいました。
さらに城内の裏切り者による放火で
大坂城が炎上し、西軍の士気が低下
一気に東軍が勢いを増して決着が付きました。
ほんの少しの手違いで戦況が変わり
歴史が変わることとなり
流動的な情勢を冷静に判断出来た
戦国武将のみが生き残れる世界です。
これからも多くのエピソードを紹介したいと思います。