【小林耳鼻咽喉科医院】 世田谷の耳鼻咽喉科 めまい 耳鳴り アレルギー性鼻炎 耳鼻科

世田谷城と世田谷線

連日暑い日が続きますね。

 

 

病院前の遊歩道より

散策して世田谷城に良く行きますが

城の周辺には豪徳寺

世田谷八幡宮

 

 

など歴史的建造物も多く、

とても静謐な雰囲気です。

 

 

世田谷八幡宮は

1091年に後三年の役を平定した

源義家が奥州からの帰途、

大雨に降られた際にこの地に泊まり

今度の戦勝は源氏の氏神である

八幡大神のご加護によるものとして

豊前国・宇佐八幡宮の御分霊を

勧請したのが始まりとされています。

 

 

江戸時代の

『江戸名所図会』にも描かれ、

境内での奉納相撲は

「江戸三大相撲」のひとつとして知られ、

現在でも境内に土俵があり

秋の祭りの時には

東京農業大学相撲部により

相撲が奉納されています。

 

 

 

 

世田谷城城址公園

 

 

城のお堀に沿って

世田谷線が走っているという

とても鋭い着眼点の研究

 

 

で当時の様子を検証している

小学生の女子と、

歴史談義をするのが楽しみです。

 

 

 

 

最近では

世田谷城の北に位置する

滝坂道に注目した

新しい説を教えてもらいました。

 

 

江戸時代に甲州街道が開設される前

瀧坂道は江戸と府中を結ぶ街道でした。

 

瀧坂道は渋谷の道玄坂で

大山街道から分かれ世田谷区内を通り、

調布市で甲州街道に合流します。

 

 

 

世田谷城のすぐ近くを

通っているため、

ここを敵に抑えられると

簡単に攻め込まれることになります。

 

そのため本当に滝坂道が

世田谷城の近くにあったのか

疑問に思った彼女は

実際に現地に赴き

本来はもっと離れた場所を

通っていたとの仮説を考えつきます。

 

 

世田谷八幡宮の方に

インタビューを行ったり

鎌倉の鶴岡八幡宮では

戦国時代に庶民は入れなかった

という事実を丹念に調べていく過程で

当時の庶民は瀧坂道を使わず

神社も参拝されていなかったと

いうことが判明します。

 

 

その結果

戦国時代と江戸時代の滝坂道は別で

これまで唱えられてきた

吉良氏が防御のため

S字状にしたというのではなく

滝坂道は戦国時代に

別の離れた位置にあり

世田谷城を防御するのに

役立っていた

という新説に至りました。

 

地道に現地に出向いて調べた

素晴らしい研究結果で

小学生でここまで

出来るとは、本当に感心しました。

 

 

これからも世田谷城に関して

調べてみたいと思います。