今日は晴れて穏やかな一日でしたね。
戦国時代について簡潔にまとめられている本を読みました。
見開きで地域と時代を合わせて解説してあるため
とてもわかりやすくなっています。
戦国時代、中国地方は毛利氏、大内氏、尼子氏が
勢力争いを繰り広げていました。
現在の島根県にある
石見銀山の銀の埋蔵量は膨大で
本格的な開発は、1526年に博多商人・神屋寿禎が
日本海沖を船で航行中に銀峯山(仙ノ山)
に光を見たことがきっかけでした。
灰吹き法という精錬法の導入によって、
石見銀山の産銀量は飛躍的に増加し、
16世紀半ばには銀は日本の輸出品の主力になりました。
当時、日本銀は世界の産銀量の3分の1を占め、
その主力が石見銀でした。
数多の交易船が石見銀を中心とする日本銀を求めて、
日本列島周辺にヨーロッパ人が訪れるようになります。
この時に勢力を得た
大内義興(おおうちよしおき)
が銀山を経営拠点としていましたが
享禄3年(1530年)
小笠原長隆の奇襲で奪われてしまいます。
しかし時を経ず小笠原長隆は
東の尼子経久
の圧力に屈し、
天文6年(1537年)銀山は事実上尼子氏の手に落ちます。
経久の後を継いだ
尼子晴久
は石見銀山守りの要として山吹城を造ります。
天文20年(1551年)大内氏の重臣、
陶隆房がクーデターを企て
主君の大内義久隆を暗殺(大寧寺の変)。
これを契機に中国地方の勢力図が大きく変わり
台頭してきたのが毛利元就です。
毛利元就は天文24年(1555年)に
陶隆房を厳島の戦いで破ります。
尼子晴久は弘治2年(1556年)の忍原崩れ
永禄2年(1559年)の降露坂の戦いで
毛利元就との戦いに勝利し難局を乗り切ります。
その後尼子晴久が永禄4年(1561年)に急死すると
後を継いだ尼子義久は毛利氏と和睦、
最後には毛利輝元が石見銀山を手中にします。
この銀山の資金を元に
毛利元就は足利義昭を擁して織田信長との長期間の
戦いを繰り広げました。